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ゼビル川から少し離れた閑静な高級住宅街に建つ煉瓦造りの
洋館には、エゲレス帰りの医師と数名の使用人が住んでいる。
毎晩遅くまで灯りがついているのは、館の主が狩人大学の教授
だからというより、彼の生徒であり住み込みの書生でもある男が、
夜毎勉学に励んでいるゆえだという事を知る者は少ない。
「サトツ先生、この本も借りていいッスか?」
「かまいませんよ。私はもう読みませんからね」
サトツ教授の書斎で山ほど医学書を抱え込みながら、レオリオは
嬉しそうに礼を言う。
元々勉強熱心な男だが、奨学金返済の為の日雇い労働に忙殺
されて学業がおろそかになる事を危惧していたサトツ教授は、
以前にも増して勉学に勤しむようになったレオリオを、頼もしく
思っていた。
「私はもう休みますが、健康を損なわない程度に頑張りなさい。
今夜は雨もずいぶん激しいですからね――― ……おや?」
洋風のアーチ窓から外を見たサトツ教授の目が、ふと止まる。
「どうかしたんスか?」
「女性が館の前に立っています。こんな時刻だというのに」
「女?」
「しかも傘もさしていない。何かあったのでしょうかね」
サトツの背後から覗き込むようにして、レオリオも外を見た。
次の瞬間、その目が見開かれる。
「……クラピカ!?」
暗い夜道を若い娘が一人で歩くなど、危険きわまりない事だ。
雨天が幸いしてか暴漢には遭遇しなかったが、着物の裾も
下駄も足袋も泥だらけで、全身ずぶ濡れになっている。
屋敷を飛び出した時は雨など気にもならなかったが、なかば
無意識に足が川原方面へと向き、自転車でも多少かかる距離を
駆けて来てしまった。
当然レオリオがそこにいるはずも無く、以前に聞いた下宿先の
洋館を探して路地を彷徨った。
ようやく辿りつきはしたものの、何と言って会えば良いのか
わからない。
ただ室内の灯りに救いを求めるうように立ち尽くす。
その時、歓楽街からの帰路とおぼしき男たちが、酒の入った
様子で声をかけて来た。
「どうした?別嬪さん。ダンナに閉め出しされたのかい?」
「うちに来いよ、暖めてやるぜぇ?」
気持ちが塞いでいる時に、この手の輩は不愉快きわまりない。
得意の合気道で撃退してやろうかと考える。
――― だが、その時。
「オレの許婚嫁に何の用だ!」
大柄な男が、かばうようにクラピカを抱き寄せた。
気迫のこもった声と眼光に恐れおののき、酔っ払いたちは
一目散に逃げてゆく。
「レオリオ……」
「ったく、何やってんだよお前!こんな時間にそんな格好で!」
番傘を差しかけるレオリオに、クラピカの感情が一気に揺れた。
「………っ」
自覚した思いを抑えられず、彼の胸に顔を埋める。
――― 先刻、彼は自分を『許婚嫁』と言ってくれた。
単に不逞の輩を撃退する為の方便でも、とても嬉しかった。
『ルシルフル中佐夫人』という言葉は、想像しただけで虫唾が
走るのに。
「お、おい、どうしたよ?」
思いがけないクラピカの態度に、レオリオは驚きを隠せないが、
動揺しつつも、何らかの異変を察知した。
雨に濡れて冷え切っているし、傘を貸せば済むわけでもないと
考えて、クラピカを館へ招き入れる。
玄関では館の主であるサトツ教授と、若いメイドが待っていた。
「知り合いですか?レオリオ君」
「ええ、まあ……。クラピカ、こちら狩人大学のサトツ先生」
狩人大学は叔父の母校でもある。もし彼が叔父と面識があったら
困るので、クラピカは咄嗟に頭を下げた。
雨で顔に貼りついた髪や水滴も手伝って、視線を遮るのには
困らない。
サトツ教授も、レオリオを信頼しているのか、特に追及しなかった。
「そのままでは風邪を引きますね。浴室と暖炉をお使いなさい。
私は休みますから、後はレオリオ君に任せますよ。メンチさん、
手伝って差し上げなさい」
傍らのメイドにそう言って、悠然と階段を上ってゆく。
その紳士的な配慮は、レオリオにもクラピカにもありがたかった。
メイドに案内された浴室で暖まった後、客用の浴衣と丹前を
借りて、クラピカは居間に通される。
そこではレオリオが暖炉に火を入れて待っていた。
お茶を淹れて来たメイドが下がると、二人きりになる。
薪のはぜる音と雨音の他は、何も聞こえない。
「…クラピカ」
先に沈黙を破ったのは、レオリオだった。
「どうしたんだよ?」
「…………」
「何かあったのか?」
「…………」
「…言いたくないってなら、無理には聞かないけどよ…」
「………昼間、の」
クラピカは不意に言葉を紡ぐ。俯いたまま、どこか辛そうに視線を
落として。
「……昼間、お前が言いかけた事だが……」
思い当たって、レオリオの胸がドキリと鳴った。
まさか今頃、返事をしに来たわけでも無いだろうに。
「もし……私の予想した内容なら、……多分、叶わない…」
「!!」
今度は、違う意味で心臓が鳴る。
きちんと告げたわけではないが、レオリオの言わんとした事は
伝わっていたらしい。
しかし、その答が『否』だとは。
ましてそれを言う為に、雨の降る夜中、傘もささずに来たとは
思えなかった。
「……なんで?」
語調を荒げるでもなく、縋るでもなく、静かに問うレオリオの声が
クラピカの胸を更に締め付ける。
泣き出しそうな心を堪え、クラピカは感情を含まぬように言った。
「……陸軍の…ルシルフル中佐が、私を……娶りたいそうだ」
「…!!」
ルシルフル中佐の悪名は、レオリオも耳にしていたのだろう。
途端に表情が凍りつく。
「だから……、……」
これ以上声を出すと、涙も一緒に出てしまいそうで、クラピカは
唇を噛み締める。
拭いきれずに髪から落ちる雫が、代わりに泣いているかのようだ。
「クラピカ…」
「…………」
雨は更に激しさを増し、慟哭のように窓を打つ。
レオリオは無言で立ち上がり、クラピカの隣に座った。
互いに視線は合わせぬまま、近づいた体温を意識する。
舶来の紅茶茶碗を持つ細い手にレオリオの手が重なった。
そしてもう片方の手は、クラピカの肩にかけられる。
ほんの少しだけ力を入れて抱き寄せると、クラピカは素直に身を
寄せた。
伝わり合うぬくもりは優しくて、せつなさが更につのる。
「……なあ」
「………」
「……二人で、どっか行くか」
「……え?」
レオリオの発言に、クラピカは思わず顔を上げた。
「オレと、どこか 誰も追って来ないような遠くへ逃げるか?」
「……!」
つまり、駆け落ちしようかと言っているのだ。
その意図に気づき、クラピカの瞳が驚きにまたたく。
「……バカな事を…言うな」
「…バカかなあ」
本気かどうかはわからないが、現実的とは言いがたかった。
「私は……叔父上を捨てられない」
早くに亡くなった両親の代わりに、ずっと育ててくれた叔父。
気づけば嫁も貰いそびれて、男やもめでクルタ家を守っている。
そんな叔父を捨てて男と逃げるなど、恩を仇で返す不義理・不孝も
はなはだしい。
「……オレも、教授の信頼を裏切れねえや」
苦笑と共にレオリオも呟く。
彼も情の深い、義理堅い男である。いろいろと目をかけ、協力して
くれた人々を平気で裏切られるほど、不実ではないのだ。
何より、レオリオには大切な目標がある。
「…医者になるという夢もだろう」
「……ああ、ダチとの約束だし…」
「頑張るのだよ…」
「…………」
レオリオは自分の身の程を充分に知っていた。
親も財産も無い貧乏医学生では、陸軍中佐とは比較にならない。
卒業して、医者になって、安定した地位と生活力を手に入れたら、
元華族の令嬢でも嫁に来てくれるかも知れないと思っていたが。
――― その日まで、待ってはもらえないのだ。
「クラピカ。オレ……」
「良いのだよ」
レオリオの言葉をクラピカは遮る。彼に医学を断念させるつもりは
ないし、何を期待して来たわけでもないのだから。
「でも、お前が不幸になるくらいならオレは」
「不幸になどならない。……私は、嫁になどゆかないから」
レオリオは目を見開く。現状で、叔父に逆らい縁談を断る方法
などあるのだろうか。
「誰の嫁にもならない。その代わり、尼になる」
クラピカはどこか達観したように告げた。
縁談を受ける前に尼寺に駆け込んでしまえば、陸軍中佐とて手の
出しようがあるまい。
もはやそれだけがクラピカを守る唯一の手段だとレオリオにも
理解できるが、納得はできなかった。
「……すまねえ、クラピカ」
「何を謝る」
「オレ、何も力になれなくて…」
レオリオは悔しさに歯噛みする。
自分にもっと力があれば。地位や財産や権力があれば、クラピカを
望まぬ男に嫁がせたり、尼にさせたりしなくて済むのに。
「ダチが死んだ時と同じだ……オレは結局、何もしてやれねえ…」
「レオリオ…」
クラピカは初めてレオリオを見た。
いつも明るく快活に笑っていた彼が、別人のように沈んでいる。
その表情が痛々しくて、手を伸ばして顔に触れた。
レオリオもクラピカに向き直る。
こんなにせつない思いで見つめ合うのは初めてだった。
――― 夫にするなら、お前が良かった。
――― お前を妻に迎えたかった。
口に出さない思いが、互いの瞳に浮かぶ。
自然に顔が近づき、クラピカは瞼を閉じる。
そして唇が重なった。
腕に力がこもり、レオリオはクラピカの細い身体を抱き寄せる。
着物越しに、かすかな震えが伝わった。
「寒いのか?」
「……違う。ただ…」
「ただ?」
「………少し…、その、……怖いだけだ」
全身を硬直させているクラピカに、その意味を察し、レオリオは
クスリと笑う。
「何、考えてんだよ」
「――― ……」
「オレには、これだけで充分だ」
そう言って、優しく強く抱きしめる。
妻にできない女の純潔を穢すわけにはゆかないから。
そんな無責任な男にはなりたくないから。
「レオ…リオ……」
堪えきれずに溢れた涙がクラピカの頬を伝う。
「私は……お前に…」
「言うなよ。……オレもだから」
言葉にすれば、更に悲しくなるだけだ。
成就できない思いを込めて、せめて固く抱きしめ合う。
二人は寄り添い、そのまま一夜を明かした。
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